癒しのことば11
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「与えると受け取れる」
私たちが幸せでない時、「私は愛されていない」「私は満たされていない」と自分の事を考えています。もちろん自分の事を感じるのは必要なことなのですが、自分の事ばかりを考えていると、意識が自分にだけ向きます。
幸せでない時、人は頭をたれて下を向いています。目線は下です。自分の周りにあるものが見えないのです。
この状態は何も目線だけの話しではなくて、心の状態もそうなります。
「私は愛されていない」「私は満たされていない」と自分の事にだけ意識が向きますから、自分に与えられているものに気付けないのです。
与えるとは、誰かに何かをしてあげることなのですが、何かをしてあげようと思うと意識が相手へ向きます。
「この人は何を喜ぶのだろう?」と考えますからね。そうすると、心の目線も相手へ向けられる事になります。相手に意識を向ける事で、心の視野が広がるのです。
心の視野が広がった分、「自分にも沢山与えられているものがあったんだ」と気付くことができるようになります。
ですから、「与えれば、与えられる」と表現するのです。
与える時に注意しなければならないのは、「相手に意識を向ける」と言う事です。
「自分が何かを欲しいから相手に何かをしてあげる」これは、見返りを期待していますから、自分が欲しいものが相手からもらえなかった時に、拒絶されたと感じたり、傷ついたりします。
そして何かをしてあげる事で、負けたような気持ちになったり、自分が何かを我慢しているのであれば、それは犠牲をしている事になります。
与えるとは、見返りを求めず、自分が我慢することなく誰かに何かをしてあげることです。
ですから、与えることをやり始めると、とても難しい事であると気付きます。
では、何をどう与えるか?ですが、愛・物・言葉・時間・お金・・・私たちは、与える事ができるものを、たくさん持っています。
その中から相手が喜ぶもの、相手が嬉しいと感じるもの、相手の為になるものを、見返りを期待せず、自分が犠牲になる事なく与えるのです。
あなたが一緒に居る事が、相手にとって喜びを感じたり、嬉しいと思ってくれるなら与える事になりますが、見返りを期待していたり、あなたが犠牲しているのであれば、与えている事になりませんし、あなたが居てあげる事が、相手の為にならない場合は、相手から離れていくことも相手に与えることになりますね。
子供が宿題をやるのを、嫌だと言ったからと言って、親が代わりにやってあげるのは、与える事になりません。
確かに子供は。親が宿題を代わりにやってくれることを、嬉しいと感じるかもしれませんが、親が宿題を代わりにやってあげると、子供は宿題を自分でやらなくなりますよね。
これが子供の為になっていない事は、ご理解いただけると思います。
代わりに宿題をやってあげるのではなく、「一緒に考えてみようか」と言葉をかけてあげる事で、子供が学習する意欲を与えてあげる事もできますし、頑張ってやった宿題を褒めてあげる事で、子供にやる気を与えてあげる事もできます。
与えることは難しいですが、与える事にチャレンジし始めると、心がオープンになってその分、色々なものを受け取れるようになります。あなたが与えた事で、相手が幸せになってくれると、与えたあなたも喜びが受け取れますからね。
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